ここでは、菅原神社(藤阪) について紹介します。

在所:藤阪天神町-1 

【ポイント】

①.後土御門天皇(1198~1210)、鎌倉末期)の頃

 津田城主・備後守正忠が津田郷から一座(12戸)を移して拓いたのが藤坂村

②.永仁6年(1298)頃、津田郷の脇宮として三の宮座衆によって祀られる。

③.豊織時代(1573-1600)に津田城主・主水頭正時が社殿を造営。

④.文久3年(1863)、幕末動乱の頃)“春日移し”と呼ばれる社殿(一間社春日造)

 昭和55年(1980)改修。

⑤.2種類の神額(天神社→天満宮);明治5年に天満宮に改称。

⑥.府道736号(旧山根街道)沿いに道標。

⑦.正面入口と拝殿の中間を明治31年鉄道が分断、手水施設が二重に存在。

【補足説明】

  拝殿掲示の境内絵図2014_10_09 金只  手水場の横を走る電車2014_08_13 金只  

  正面鳥居2014_01_04 金只  拝殿正面2013_04_22 金只

  春日移しの本殿2014_10_09 金只  側面鳥居2013_04_22 金只

  塀殿内掲示藤坂天満宮由来2014_10_09 金只

 

 藤坂村の始めは津田村から分かれたもので古くはその名が永仁6年(1298)三宮奉加の村々中に記されている。其の頃当社は津田郷の脇宮として三宮座衆で祀られていたと伝えている。

 後土御門天皇の頃、津田城主備後守正忠はこの地を開き、津田郷の一座を移植したので、当時氏子は12軒であったが天文元年(1532)明尾寺の辺に在った津ノ熊郷5軒が戦に焼けて当郷に加わったので17軒となった。その姓名は永禄2年(1559)河州交野郡五ケ郷(津田・藤坂・杉・尊延寺・穂谷)侍連名帳に記して三ノ宮神社に奉納したがそれは今も同社に残っている。

 天正年中(1573年より1593年)津田城主主水頭正時は、当社の造営をなし村人は天満山を伐り開いて畑地や屋敷を広げた。天満のお茶屋はこの宮の前にあって坂道の傍の藤の古木と共に交野近在にその名を知られた。

 当社の造営修復はその後寛永6年(1629)及び寛文11年(1681)に行われたことが記録に伝えられている。

 文久3年(1863)当社の本殿として奈良春日大社の一殿を寄附せられたので、一同氏子は、その木材を当村に運んで組立てたものが今日の春日造りの社殿である。

 明治31年(1899)旧拝殿を改築して現在のものとした。これと時を同じうして関西鉄道片野町線開通し当社の境内を通過することゝなった。

 現在氏子総代は家木五一、猪熊和一郎、高島幾太郎、高島末春、寺島庄次郎、寺島健造の6名と宮司は藤平與一である。

                                                      昭和30年正月 長尾 片山長三誌

②.現地「水神さまのいわれ」より

  拝殿内掲示水神様のいわれ2014_10_09 金只

 北野天神様記「建久奉」の道賢冥途記に大政威徳天となられた菅原道真公との会う場面で、その下に十六万八千の水火雷電風伯風師毒竜鬼神たちがこの国中にみちみちて大水害をおこすされている。その総支配をなさる神様が天神であり、水神様は天神さま(大政威徳天)の春属であると記されている。又天神様は風雨水火の支配神として信仰があったと伝えられている。

 藤坂天満宮の水神様の起源は古老の伝ているところによると、古来当地の住民は農村民族として稲作を主に生活を営んでいたが、毎年大きな旱魃にあい稲が枯死する危機にひんしたことがあった。其の時氏子が集り連日雨ごいの祈願をしたところ不思議にも突然雷鳴と共に大つぶの雨が降り稲作全滅の難を免れたと伝えられている。

 後日、氏子衆により水神社を建立し五穀豊穣の守護神としてこの地に祀ったのが始まりである。昭和55年10月吉日社殿の改修をして、今日にいたるのである。                                                  昭和59年10月吉j日  藤坂天満宮

③.現地「天神さまのいわれ」より

  拝殿内掲示天神さまのいわれ2014_10_09 金只

 「ここはどこの細道じゃ天神さまの細道じゃ」と同様のなかにも、天神さまが現在に生きつづけておられます。

 学問の神さままこと心の神さまとして大宰府天満宮をはじめ全国1万2千のお社に祀られています。天神さまのことを菅原道真公又は菅公と言い、代々学問をもって朝廷にお使えするという家柄で幼いころから学問に励まれ満3才のとき庭に植えられた紅梅をご覧になって、「美しや紅の色なる梅の花 阿呼(御幼名)が顔にもつけたくぞある」という歌を作られるほど梅の花がお好きで秀れた才能をもっておられた。

 33才で日本で一番若い文書博士となられ右大臣という学者でありながら秀ぐれた才能をもっておられました。

 あまりの出世に菅公をねたむ者があり、罪のない公を遠い九州の大宰府に罪人として京より追放しました。

 しかしながら天神さまは決して人をうらんだりにくいんだりなさらずきっとあとでわかってくれる時がく るであろう と大宰府の地から皇室の御安泰と日本の平和を祈られ延喜3年2月25日(903)御年59才で亡くなられました。

 そのお墓の上にお社を建ててお祀りしたのが大宰府天満宮の起源であります。

 当藤阪天満宮はその尊い天神さまの御分霊を私たちの遠い祖先の方々がこの地

にいただき後世の皆さんたちが美しい心をもって学問に励み社会人となっては世のため人のためにお役に立つ立派な日本人になるよう遺していただいた精神文化のとうとい遺産であります。                                        昭和54年1月1日  藤阪天満宮

④.現地「白牛のいわれ」より

  拝殿内掲示白牛いわれ2014_10_09 金只

 菅原道真公は乙丑つまり丑年のお生れて丑日に大宰府で亡くなられました。讃岐守(香川県知事)をなされておられるとき農業を奨励され牛馬を大変愛され、ことに牛はこつこつと目的に向って邁進していく勤勉・着実な日本人本来の姿とよく似通っています。

 藤原時平のわるたくみによって京都から九州大宰府に追放された道真公を途中で殺してやろうと時平は笠原宿祢に命じたところが公に危害が迫って来たことをいち早く知った白牛が何処からともなくとんで来てその主領を角でほふり殺してしまい公の危難を救った伝えられている。白牛は公のお伴をしたおとなしい牛だったそうである。

 古歌

  一つこと足踏みしめて歩みなは

    他に踏ましと牛牛はいそがず

昭和59年10月吉日   藤阪天満宮

【参考情報】

Wikipedia菅原道真