ここでは、アテルイ・モレ首塚 について紹介します。

在所在所:牧野阪二丁目13-13

【ポイント】

①.日本統治の歴史を語る首塚

 ・桓武天皇(781-806)、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。

 ・3次征夷にてアテルイは降伏、腹心のモレと共に生命を保証するとされ捕虜となる。

 ・田村麻呂は公家の反対により男の約束は 果たせず、両名を802年8月処刑する。

②.平成19年有志によって新たな塚が建立される。

③.京都清水寺に、平安遷都1200年を記念して、平成6年(1994)に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立

【関連写真】

​ アテルイ・モレ塚全景2013_05_13 金只​   アテルイ・モレ塚2013_05_13 金只  

 案内板2013_05_13 金只      首塚全景2013_05_13 金只​   

 

【補足説明】

①.阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の塚現地説明文より

 約1200年前、時の朝廷の国土統治にあたり、東北地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。このため朝廷は、彼らを辺境の人々として征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対して、激しい抵抗を繰り返し容易には屈服しませんでした。

 延暦21年(802)4月、征夷大将軍坂上田村麻呂(サカノウエ ノ タムラマロ)は蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族5百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、7月2人を伴って帰京しました。2人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、2人は河内国で処刑されました。

 この地がアテルイとモレのゆかりの地とされてます。

 ※ 平安遷都が794年に実施された。京都と奈良の中間地点の河内の国の両都を結ぶ楠葉外れのこの地を処刑地として選んだのは後ろ暗さがあったか?

   国内統一の一つの汚点か?

   関東(南北朝時代)、東北(戦国時代)、沖縄(江戸時代)、北海道(明治)含めて、明治に入って初めて日本国として真の統一ができた。

 ②.阿弖流為・母禮の塚裏面の説明文より

 約1200年前、時の朝廷の国土統治にあたり、東北地方には蝦夷(エミシ)と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。肥沃な蝦夷地日高見國の征服は古くからの朝廷の悲願であったが延暦8年には万余りの大軍が北上川河畔でアテルイの軍に大敗する有様であった。

 延暦21年(802)4月、征夷大将軍坂上田村麻呂は、蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、2人を伴って7月帰京しました。2人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、2人は8月河内国で処刑されました。

 郷土史の先覚者たちにより両名最期の地と目され、また首塚の伝えをもつ当地に、1205年の時を経て多くの賛同者の浄財により塚を建立。

              関西外国語大学教授     

              塚の表記は京都・清水寺貫主 瀬川 芳則・森 清範 による

              平成19年3月4日建立 『伝 阿弖流為 母禮 之塚 建立実行委員会』

【参考情報】

Wikipedia:アテルイ・モレ

LocalWiki:宇山東公園・・・アテルイ・モレ胴塚