ここでは、紀州候七里飛脚跡 について紹介します。

在所:岡本町2-1

【ポイント】

①.江戸時代、紀州家は江戸屋敷と紀州城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関設置。

②.江戸-紀州間(584km)の約七里毎(28km)に中継ぎ役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。

③.主役のお七里役は、剣道、弁舌に優れた者が選ばれ、昇り竜・下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。

④.普通便は毎月3回、江戸は4の日、和歌山は10の日に出発、道中8日を要した。特急便の場合は4日足らずで到着した。

⑤.過っては、この辻はT字路で、この突き当たりに飛脚所を構えていた。

【関連写真】

    

【補足説明】

①.元枚方観光ボランティアガイド南場氏の資料より

 宗左の辻北西の角にある理髪店のあたりに、紀州藩は独自の通信機関として、江戸・和歌山間に七里毎に紀州家の郵便物や情報収集・参勤交代の連絡にあたる七里飛脚(枚方七里役所)を置いていた。

 文政・天保期の記録には大坂天神橋紀州藩屋敷から参勤の通行1ヶ月前くらいから七里の者が枚方に出張し、通行前の準備、点検にあたり、通行後は残務整理を済ませて帰阪した。

 都合50日位の滞在であった。この間、枚方宿は七里役所の命により御用状箱を運ぶ人足を提供したり、滞在費・人足費は枚方宿が負担した。

 この出張所は国元では足軽の身分であるが、武士の身分をかさに威張り散らし、色々難題を吹きかけて爪弾きとなっていた。参勤交代の前後しか仕事が無く幕末の頃には財政難で廃れていった。

【参考情報】

インターネット:紀州七里飛脚;紀州よいとこ