ここでは、加茂健豆美命神社 について紹介します。

在所:谷一丁目17-2

【ポイント】

①.桓武天皇(781-806)の勅命で和気清麻呂が祀り始める。

②.応仁の乱で焼失。

③.寛永年(1629)江戸時代末期)に「産土神」として再建。

④.明治年、蹉陀神社に合祀して廃止するも、明治12年複社。

【関連写真】

  参道2012_12_13 金只  鳥居2012_12_13 金只  標柱2012_12_13 金只

  拝殿2012_12_13 金只  御手洗大明神2012_12_13 金只  金比羅神社2012_12_13 金只

【補足説明】

①.現地説明板(村社 加茂健豆美命神社由緒略記)より

 当社は、人皇50代桓武天皇の御代、勅命により和気清磨呂公、この地を河内の一の宮として、「賀茂の大神」を斎(トツき祭れるがその始めなりという。 

 古き史を繙(ひもと)けば、祭神「賀茂の大神」は、神武天皇、国を建つるにあたり、畿内の豪族として大功をたて、山城の国を賜るや、民生の安定に貢献、ために「賀茂御祖の大神」として奉祭さる。今の京都「下鴨神社」これなり。

 御分霊を当地に迎えるにあたり、賀茂の社家の人々多く移り住み、堂山に三千坪の神域を開き、その中腹に広壮な社殿を造営せり。丘の下を走井といい、今の走谷これなり。近くに清冽な御手洗川あり。社参の人々この川にて禊(ミソギし、敬神の誠を捧げしという。

 しかるに約670余年を経て応仁の乱起こり、惜しくも兵火にかかり一切の財宝焼失し、今に残れるものなしと言う。されども今日、走谷に宮の上・宮の下・大門前・堂前等の地名が残れるは、往時の隆盛を窺うに足るというべきか。わが「加茂神社」は、これより160余年を経て、寛永年に「産土神」として再建され、氏子の年長者が「一老」と言いて神主となり、氏人が祭員となりて春秋の祭典を執行せり。明治年「蹉陀神社」に合祀、同12年、現在地に復社し今日に至る。

 明治39年、加茂の森の浄財をもって拝殿を、昭和39年、社務所を新築、昭和49年、本殿を改築せり。境内に「御手洗・琴平」の小祀あり。 

 神と人相和し、神霊に仕えるはわが民族の卓越せる資質にして、わが走谷も千百余年にわたり て、「賀茂の大神」を奉祭す。

【参考情報】

Wikipedia:和気清麻呂