ここでは、大塚の堤防切れ について紹介します。
在所:大塚町三丁目25・・・淀川右岸堤防法面
【ポイント】
①.大正6年(1917)10月01日朝、淀川が突如決壊、濁水は大冠(オオカンムリ)地域一帯を水没。
②.昭和5年(1930)、水との闘いを伝える記録として洪水記念碑が建てられた.。
【関連写真】
【補足説明】
①.現地案内板より
淀川は、古くから「母なる河」として親しまれ、政治、経済、文化などの発展に重要な役割をになってきた。その流れは、瀬田川から宇治川を経て大阪湾にいたる73.1kmに及ぶ。
古代の淀川は上流の木津川とともに、大和王権の重要な外交ルートを担っていた。また、近世以降は、重要な水上交通路として多くの川舟がいきかい、三十石船の船頭衆による浪々とした船唄は、両岸の風景を見事に唄いあげ、旅人はおおいに旅情をなぐさめられたという。
この船唄は、三十石船が姿を消した明治時代以降も唄いつがれ昭和60年に市の、平成14年に大阪府の無形民族文化財に指定され、保護団体の大塚保存会が、その唄声をいまに伝えている。
淀川の近代的な修築工事は、明治7年(1874)、オランダ人技師デレーケらの指導によって改修計画が策定され、翌年から着工されたことにはじまる。
しかし、大正6年(1917)10月01日朝、連日の暴風雨で増水そていた淀川が突如決壊、濁水は大冠(オオカンムリ)地域一帯を水没させ、JR以南の多くの町並みも軒下まで浸水した。被害は、大阪府下で死者・行方不明者・負傷者22人、浸水家屋等15,500戸にのぼり、この水害を、当地では「大塚切れ」と呼んでいる。
その後、堤防の改修工事が進んだ結果淀川本流の破堤はなくなり、昭和5年(1930)、水との闘いを伝える記録として洪水記念碑が建てられた。
平成20年3月 高塚市教育委員会
【参考情報】
淀川華扇事務所:淀川大塚切れ
Localwiki:トロッコ列車橋脚跡