日承聖人ここでは、大隆寺 について紹介します。

在所:枚方元町1-31

【ポイント】

①.この寺は、法華宗(本門流)本能寺・本興寺の末寺。

②.大隆寺発祥のいきさつ

 ・順興寺とその寺内町が元亀元年(1570)8月25日信長によって焼き払われた。

 ・一向宗対策として織田信長の要請で日承聖人が天正3年(1575)に開祖。 

③.法華宗への信長の肩入れの訳

 ・宗教対策;一向宗に対する法華宗の活用

 ・鉄砲対策;鉄砲伝来の瀬戸内~種子島ルートには法華宗寺院が多くある。

 ・経済対策;同上ルートは、南蛮貿易のルートでもある。

④.本尊は、日蓮聖人直筆の「大曼荼羅」です。

⑤.平成14年(2002)庫裏新築工事で、敷地から備前焼大甕24個が出土。

 ・順興寺を中心に発展してきた寺内町の油屋のものでは?と言われている。

⑥.半鐘は、江戸中期に鋳造されたもので、田中鋳物製。

【関連写真】

 全景2012_11_01 金只  本堂2013_03_18 金只  

 本堂前標柱(伏見宮日承王御宿跡)
2013_02_05 金只
   本堂前標柱(法華宗興隆学林校舎跡の碑)
2013_02_05 金只
   田中鋳物師製作半鐘2013_02_05 金只    

焼き討ちにあった油屋の甕倉(大隆寺展示写真を複写)

 発掘場所の航空写真2013_02_05 金只   本堂内の説明板-12013_02_05 金只   

 発掘大甕群2013_02_05 金只  発掘復元した大甕2013_02_05 金只

【補足説明】

.織田信長との関連。

・1570年から大阪石山本願寺攻めを開始。

・枚方御坊も焼討、その跡に法華宗の大隆寺を誘致したものと思える。

・法華宗は、1415年の本能寺建立から西国内海航路に布教拠点を持ち種子島・屋久島・永良部島まで貫主が巡錫していた。

・信長入京時の貫主は皇族の出身で畏敬の念をもっていた。

・鉄砲の入手という軍事の他、貿易、一向宗徒対策上から法華宗を大事に扱った。

②.大隆寺住職 株橋祐史さん著 「大隆寺と信長」より

 1).開基は日承聖人

 当大隆寺は、天正3年(1575)京都本能寺・尼崎本興寺第12世日承聖人によって開創された法華宗の寺院である。日承聖人は、後伏見天皇第6世の皇孫である邦高親王の王子で、文亀元年(1501)に生誕し、幼年より本能寺に入って、天文12年(1543)43歳にして、本能寺の御貫主になられた高僧である。この頃の本能寺は、天文6年(1536)の法華の乱で18万の比叡山の僧徒によって焼討たれ灰燼に帰し、存続の危機に瀕する最も荒廃していた時であった。聖人は数ヵ年の歳月の内に、六角四条門、油小路西洞院の間に土地を求め伽藍を整備して、以前に勝る大本能寺を復興し中興の栄誉を受けられ、以後本能寺は隆盛の時代を迎えるのである。天正10年(1582)かの「本能寺の変」にて焼失した本能寺は、聖人が苦労の末再建されたまさしくこの本能寺だったのである。聖人は学徳にも優れ、法華経の注釈書50巻を始め、教義に関する著述が多数あり、また写本も数十巻を数える。

 この学識をもとに、子弟教育にも力を注がれ、本能寺に学室を開設されるほどである。さらには、布教にも専念され、畿内・西国・薩摩・種子島などを老躯を厭わず巡錫し、寺を建立すること数十ケ寺にのぼるのである。天正7年(1579)79歳をもって、尼崎本興寺にて入滅された。現在聖人の墓は本能寺及び本興寺にあり、本能寺の墓所は宮内庁管轄となっており、過去には勅使の墓参があったという。

​ 2).枚方寺内町

 ここ枚方は、古くより水陸の交通の要衝として世に注目されてきた場所である。特に16世紀ごろは寺内町として相当栄えていたといわれている。すなわち、この寺内町は、枚方順興寺寺内町といわれ、本願寺実如上人が永世11年(1514)に創立したと伝えられる枚方御坊(後の順興寺、今の願生坊)の寺内に成立した町である。それは大阪石山本願寺寺内町の縮小版といわれ、「大阪並」いわゆる石山本願寺寺内町に準ずる特権を有していたというから、その規模と勢力のほどが窺い知れよう。また枚方寺内町は、周辺の出口・招提寺内町、対岸の富田寺内町、大阪石山本願寺寺内町と密接な関連をもっていたことが確認されている。

 今般、大隆寺の本堂増築工事に伴う文化財発掘調査では、寺内町の油屋とみられる遺構が発掘され、寺内町の存在が確認されている。これは、平成14年5月末に発見されたもので、備前焼の大甕が1列に6個(西端列のみ5個)、4列分、これと離れて1個、合計24個が出土したのである。

 大甕の大きさは95cm、胴回り1抱えもある大きなもので、内容量は確認されているもので2石入り(1升瓶200本分)であるという。詳しくは調査報告書を待たねばならないが、見るものを後ずさりさせるほどの迫力は、まことに圧巻であった。又甕倉は礎石より2間×3間以上の規模をもつ建物で床面積約52m2以上と推定される。このような、油屋を擁する寺内町とはどんなに活気にあふれた町であったか。これだけの油を備蓄するからには、これに耐えうる消費地を確保していたにちがいない。枚方の立地を考えると商業範囲は広大であると思われる。しかし、この規模と勢力が却って織田信長の攻撃の的になってしまい、結局は壊滅的に破壊され尽くすのである。現在、信長の順興寺および寺内町焼討は、元亀・天正年間(1570~1592)といわれているが、今回の調査によって、元亀から天正3年(1570~1575)という可能性も指摘できるのである。なお、前述の大甕は焼土層・礎石とともに出土し、人為的に割られたあとがあり、また底の部分には内容物の油が残存していたことを付記しておきたい。

 3).大隆寺成立の事情、信長との関連

 周知の如く、信長の天下統一の野望にもっとも頑強に抵抗したのは、一向宗でありその統率者は蓮如上人である。信長は一向勢力には相当手こずっていたようである。

 枚方御坊は永禄2年(1559)蓮如上人第27子実従上人の入寺により、「順興寺」と改められた。枚方寺内町の焼討は元亀元年(1570)から天正8年(1580)にわたる。石山本願寺との石山合戦の真っ最中である。以前より一向宗勢力は、根来衆・雑賀衆の鉄砲をふんだんに使用して、信長には徹底抗戦の姿勢をとっている。そこで、信長は鉄砲の確保を最優先に考えなくてはならなかった。特に天正3年(1575)の長篠合戦で鉄砲主力の必要性を確信したであろう。

 ところで法華宗は、日隆聖人によって応永22年(1415)京都洛中に本能寺、応永27年(1419)尼崎に本興寺が建立され、続いて堺・備前牛窓・備中高松・讃岐宇多津・備後尾道等内海航路の要港につぎつぎに布教拠点がつくられた。これは、その地方の豪族や海外貿易に従事する商人たちの圧倒的帰依によるものである。さらに日隆聖人の弟子日典聖人・日良聖人は、当時海外貿易の中継地たる種子島・屋久島・口永良部島三島悉く法華宗に改宗させていた。以後本能寺・本興寺の歴代貫主は内海航路の要港を経由しながら、南の果て種子島まで巡錫するようになるのである。このような経緯の中で天文12年(1543)種子島に鉄砲が伝来する。大隆寺開基日承聖人43歳にして本能寺御貫主となられた年である。

 一方、種子島鉄砲独占を企てる信長が、京都本能寺・尼崎本興寺・瀬戸内・種子島ルートに着目しないはずはなく、このルートを制することはすなわち上質鉄砲の安定的な供給とさらに安全確実な運搬が保証されるころにもなるのである。のみならず国内外貿易の掌握にも有利であり、そこからもたらされる文化的恩恵は計り知れないのである。京都洛中の日蓮門下諸本山を弾圧し、また比叡山をも焼討にするあの信長が、石山合戦の元亀元年(1570)の8月23日を始めとして3度も伏見宮家出身の日承聖人が統理する本能寺に宿している(4度目は本能寺の変である)。これは彼の皇室に対する畏敬の念を差し引いても、積極的に法華宗を保護し利用する彼の姿勢の表れとして、とりわけ興味深い事実であるといわねばならない。

 以上のような背景から、水陸の交通の要であるこの地に、日承聖人の隠居所として大隆寺が建立された事は、法華宗にとって京都本能寺・尼崎本興寺の往復の中間点として重要な布教拠点であることは当然であるが、このことは信長にとっても、軍事上・経済上・宗教政策上非常に重要な意味を持っていたことも見逃せない観点であろう。それゆえ大隆寺創立前夜からその背景には信長の顔が見え隠れするのである。