ここでは、妙見山配水場 について紹介します。

在所;香里ケ丘八丁目5-2

【ポイント】

①.昭和14年(1939) 宇治火薬製造所香里工場として操業開始。

  ※ 兵器用火薬を製造

②.昭和17年(1942) 東京第二陸軍造兵廠香里製造所として独立。

③.昭和20年(1945) 終戦により香里製造所操業停止。

④.昭和57年(1982) 「非核平和都市宣言」、第3汽缶場煙突が戦争遺跡として保存される。

⑤.平成7年(1995) 戦後50周年、平和モニュメントとして守り続けることを表明。

⑥.煙突周りの突起物は、カモフラージュ用に松枝を掛ける目的のもの。

【関連写真】

 第3気缶場排煙煙突2017_11_03 金只   妙見山配水場入口2017_11_03 金只   

 入口の平和の誓2017_11_03 金只   平和の誓の全文2017_11_03 金只   

 第3気缶場の排煙煙突2014_04_07 西平   案内板(煙突)2014_04_07 西平   

 第3気缶場の排煙ダクト2014_04_07 西平   

【補足説明】

①.枚方市妙見山配水池の碑文より

煙突に寄せて平和を誓う  

 香里団地一帯には、戦時中、砲弾などの兵器用火薬を製造する香里製造所があった。

 敗戦により工場は閉鎖されたが、昭和27年(1952)、朝鮮戦争の特需ブームにのって火薬製造会社が、旧香里製造所の払い下げを申請した。これに驚いた枚方市、寝屋川市の香里園地区住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。枚方市長・市議会を始め町内会、PTA、婦人会などは再開反対を叫んで、国会・政府に陳情を重ねた。衆議院通産委員の現地視察には、反対の旗とプラカードが香里園地区を埋めつくした。そして、半年以上に及ぶねばり強い地元の反対運動が実り、翌年3月、政府は火薬製造所再開を断念した。

 昭和30年(1955)に日本住宅公団が設立されると、当地域に住宅建設が計画され、翌年、香里団地の造成が始まった。旧製造所の建物・施設は、すべて取り除かれて近代的ニュータウンに一変したが、ここ妙見山の一角は団地計画から外れたため、旧製造所汽缶場の煙突は撤去されずに残った。

 煙が出ていた時代、再び煙を出させないように運動を繰り広げた市民の平和への熱い思い、平和な住宅地の発展を、この煙突は見続けてきた。

 枚方市は、昭和57年(1982)12月に「非核平和都市宣言」を行い不戦と平和を誓い、この煙突を保存することにした。平成7年( 1995)の被爆・戦後50周年を機に、あらためて平和のモニュメントとして守り続けることを表明する。              1996年(平成8年) 3月 大阪府・枚方市

②.遺構第3汽缶煙突横の案内板より

 「煙突に寄せて平和を誓う」

 香里団地一帯には、戦時中、砲弾、銃弾など兵器用火薬を製造する東京第二陸軍香里製造所があった。敗戦後、工場は閉鎖されたが、昭和27年朝鮮戦争の特需ブームにのって火薬製造会社が旧香里製造所の払下げを申請した。これに驚いた枚方、寝屋川市の香里地区住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。枚方市長、市議会をはじめPTA、婦人会なども再開反対を叫んで、国会、政府に陳情を重ねた。衆議院通産委員の現地視察には、反対の旗とプラカードで香里地区を埋めつくした。そして半年以上に及ぶ、ねばり強い地元の反対運動が実り、28年3月政府はついに再開を断念した。

 昭和30年日本住宅公団が設立されると、当地に住宅建設が計画され31年住宅公団香里団地の造成が始まった。旧製造所の建物施設は一掃されて近代的ニュータウンに一変したが、ここ妙見山の一角は、団地計画から外れたため旧製造所の煙突だけは撤去を免れたため旧製造所時代の煙突だけは撤去を免れて残り37年枚方市水道局用地となった。

 平和を愛する枚方市民にとってこの煙突から煙が出ていた時代、再び煙を出させようとする動きを市民みんなで防止したことなど煙突への思いは多い。昭和57年12月非核平和宣言を枚方市は今あらためて不戦と平和を誓ってこの煙突を守りつづける。

    昭和59年8月  枚方市