ここでは、日置天神社 について紹介します。

在所:枚方市招堤南町2丁目28

【ポイント】

①.日置天神社境内とその周辺は日置山遺跡です。

②.日置山遺跡は古墳時代から中世までの複合遺跡

③.祭神:天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)・菅原道真

④.惟喬親王(844~897)が日没を止めてと祈った伝説あり

  平安時代には集落があったらしいが詳細不明

⑤.南北朝動乱期(14世紀中頃)戦火で集落焼失

  蓮如の子蓮淳が浄土真宗寺院(敬応寺)を建立、その鎮守として神社再建(1532~1555年頃)

⑥.元禄年間(1688~1704)に再建、現代の建物は、平成11年に再建

⑦.ダンジリ8基が奉納され、秋祭りに8基全て公開。一部曳航されている。

【関連写真】

 正面鳥居2013_05_13 金只​   正面標柱2013_05_13 金只​   

 現地説明板2013_05_13 金只​   拝殿&本殿2013_05_31 金只​   

 本殿2013_05_13 金只​   末社(三社)2013_05_13 金只​   

 日頃の山車格納庫列​   秋の大祭に開帳された8基のだんじり
2014_10_19 金只

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 右-3右面の全景2014_10_19 金只​   

補足説明

①.現地説明板より

日置山遺跡

 日置山遺跡は、日置天神社境内とその周辺を指し、かってはタニシの貝塚として知られていたが、昭和57年の発掘調査により中世の貝層をはじめ溝・土杭などが確認された。また、日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺構を検出した。

 このように、日置山遺跡は古墳時代から中世までの複合遺跡で、周辺には日置千軒と伝えられる繁栄の跡が眠っているものと思われる。

日置天神社

 日置天神社には、惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願したという伝承がある。

 中世におけるこの付近は、東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が甍をきそっていたという。南北朝期の動乱の際したびたび戦場に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる。その後16世紀中頃、真宗8世蓮如の6男蓮淳を招いて当地を寺内村(招堤寺内村)として再開発したおり、当社を寺内鎮守として再建したと伝える。       1995年 枚方市教育委員会

②.祭神

 主祭神の天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)は、古事記冒頭の天地開闢のとき、混沌の中から最初に成り出た造化三神の中心神だが、冒頭に登場するだけで以後は身を隠し、古社の中でこの神を祀る事例もないという不思議な神。

 鎌倉時代以降になると世界を創造し支配する最高神という神格が与えられ、伊勢外宮の主神・トヨウケ大神と同体とされたり、神仏習合の進展によって仏教の妙見菩薩や道教の鎮宅霊符神と同体とされるなど、いろんな神格が付加されている。

 そのアメノミナカヌシが当社に祀られた由緒など不明。惟喬親王が日没を留めようと祈った天神(アマツカミ)にアメノミナカヌシを当てた、ということであろう。

 併祭神の菅原道真は、慶長末年頃(1615頃)に合祀されたというが、その由緒は不明。今、社殿前に道真に関係の深い牛の臥像があることからみると、天神(テンジン)=道真を祀るとの認識が強いらしい。

③.三社神社--祭神:天照大神・八幡大神・春日大神

 三社神社の創建由緒など不明だが、アマテラス・ハチマン・カスガの三神を祀ることからみて、中世から近世にかけて流行した“三社託宣信仰”に関わるものかもしれない。

②.インターネット:「ふるさと枚方発見」より

 日置天神社には、惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹の姿が見えなくなったので、日没を惜しんで、『日を止め置かせ給え』と天神に祈願したという伝承があります。中世におけるこの付近は、東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が豪華さを競っていたと伝えられています。
 しかし、南北朝期の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔ともに焼失しました。その後1543年頃、蓮淳を中心に当地区が寺内町(招提寺内町)として再開発された時、当神社を寺内鎮守として再建したと伝承されています。

 この地は、日置山遺跡としても有名で、日置天神社境内とその周辺は、かつてタニシの貝塚があると言われていましたが、昭和57年の発掘調査により、中世の貝層をはじめ、溝・土坑などが確認されています。また、日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺構も検出されました。

【参考情報】

Localwiki:惟喬親王伝説