ここでは、枚方宿の歴史ついて​紹介します。

1.枚方宿とその周辺地域の歴史

 (1).古代

  4世紀   仁徳記に外航船による淀川・木津川運行の記録があり、万年寺古墳も発掘調査で4世紀のものと推定されています。

 (2).白鳳時代

  6世紀   継体天皇の時代、朝鮮百済国に援軍を出した祭の日本書記の記述に『ひらかた』の地名が初めて登場してます。

 (3).平安時代

  860年  醍醐寺の聖宝上人の伽藍建立による万年寺開基しました。

  9世紀   惟喬親王の愛鷹が万年寺の松の木に巣作をしたため『長松山』との言伝えがあります。

        都が京都に移ってからは、交通の要衝である樟葉の地を中心に栄え、枚方宿地区は長い空白の期間を過ごすことになりました。

 (4).戦国時代

  1514年 蓮如上人が布教活動で枚方地区に入り、後に順興寺が建立され、寺内町として栄えました。

        ※ 俗称「蔵の谷」と言われた現「願生坊」・「太隆寺」辺りを中心に寺内町が発祥。

  1570年 織田信長によって順興寺とその寺内町は焼失しました。

  1582年 秀吉が天下を取ると、淀川水運の要である枚方宿が息を吹き返しました。

  1585年 秀吉の大阪城が完成し、その後、淀・伏見に城を築いた。

  1594年 諸大名命じて淀川の堤防工事(15,261間;27.14km)施工させ、これを道路として使用した。

        これを文禄提又は太閤堤と云う。

        ※ 秀吉による御茶屋御殿の建設が宿場町の始まり

 (5).江戸時代

  1601年 関ケ原の戦いの後、家康が伏見城で政務を執り、京街道は東海道に組み込まれる。

  1616年 大阪夏の陣の後、家康は東海道を大阪まで延長し、正式に56番目の宿場町としてスタート。

        枚方宿は、岡新町・岡・三矢・泥町からなり、東見附から西見附までの道路延長792間、1.45km、幅員4.5mです。

  1682年 本願寺が東西に分裂、浄念寺・願生坊が御坊として再スタートし、再び寺内町としての活性化を取り戻す。

  1715年 廻書船が運行を始め、追っかけて伏見船も運行開始し、京都・大阪の中間に位置する枚方は物資の集散地として益々繁栄した。

        枚方は、天領としての問屋機能、船運の利権、作り酒屋などの数々の利権に浴した。

        又、第8代将軍吉宗以降は、紀州公の定宿とし て使われ、譜代大名・旗本が大阪との往来でよく利用した。

        天明年間(1781-1789)の記録では、家屋341戸、人口1,692人、本陣棟、医師人、商人・職人47棟、馬宿所ケ所、人足継ぎ所ケ所。

  1839年 枚方宿で助郷の人達の不満のハケ口としての「お陰まいり」が発生し、後に「ええんじゃないか」に発展し、明治維新へとつながった。

 (6).明治以降

  1868年 明治天皇が大阪遷都のため枚方に立ち寄る。多くの反対にあい、守口に宿泊後京都に帰る。

        同年、天皇は、江戸に下向され明治政府が設立されました。

  1870年 淀川に蒸気船が就航・・・枚方宿の衰退がはじまる。

  1910年 京阪電車が開通。同時に集客策としての菊人形展が始まる。これが最近まで継続され、『枚方』=『菊人形』のイメージが定着。

  1930年 枚方大橋が開通、淀川の渡しが廃止される。

  1945年 京都・奈良の中間に位置する枚方は、火薬製造を中心とした一大軍需工場があったにも関わらず戦災を免れ、多くの古民家を残した。

  1947年 枚方市誕生

2.古文書から見た枚方宿の起源

 (1).天正年間(1573~1591)

 「宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、此段、寺沢藤右衛門へ申出、追って退散の者帰住致」という記録により、この頃には既に宿場としての起源が有った事が伺える。

 (2).文禄4年(1595)

 文禄5年に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸に築かれた文禄堤が、大阪京橋から京都伏見へ向かう京街道として用いられるようになった。文禄4年(1595)には、豊臣秀吉が万年寺の横の台地に御茶屋御殿を構え、文禄提の築造を督促したと伝わっています。

 (3).慶長8年(1601)

 徳川家康が大阪城西の丸を出て伏見城に移り執務を開始し、この京街道を東海道の伸延部と認定した。

 (4).元和2年(1616)

 慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康が完全に制覇した元和2年(1916)に、隣の守口宿が発足したとの記録から、当枚方宿も同時に発足したものと思われます。

 (5).宝暦8年(1789)

   幕府道中奉行御勘定 谷金十郎の手紙より「東海道は、品川宿より守口宿」の記述がある。

 (6).寛政元年(1789)

  土佐藩からの問いに対する幕府大目付勘定奉行の回答に「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、枚方、守口迄外はこれ無き」の記述があります。

3.枚方宿の繁栄

  枚方宿は、大阪・京都のほぼ中間に位置し、交通の要衝として陸の街道だけでなく、街道と並行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。

  参勤交代の際には、親藩や譜代などの徳川家に縁故の大名が枚方宿で休泊しました。中でも御三家の一つである紀州徳川家の大名行列は、その格式と威光を感じさせる大行列であったため、多くの農民が見物に訪れたと言われていました。

  史料によると、御三家筆頭の尾張徳川家や外様大名筆頭の加賀前田藩をも凌ぐもので、天保12年(1841)の紀州徳川家第11代藩主徳川斉順の参勤交代では武士1,639人、人足2,337人、馬103匹を擁し、準備のために七里飛脚や家臣が藩主が到着する数ケ月前から来宿したと言われていました。

  また、英国外交官アーネスト・サトウはその著書のなかで明治維新前後の自己の体験談を次のように述べております。

  慶応3年(1867)に大阪に出張した帰途に枚方村で食事をした時、食事代があまりにも安かったので問うと公務の旅行者は通常料金の4分の1との旅館規則があること知ったと言うことでした。ちなみに彼には日本側の警護役人が同行していました。

  その後、明治の時代になってからは、蒸気船の登場と、明治6年(1876)東海道本線、明治43年(1910)の京阪電車の開通が相次ぎ淀川水運が衰退した事により急速に枚方宿も衰退しました。

4.宿場の構成

  枚方宿は、岡新町、岡、三矢、泥町の四ケ村が指定されました。枚方宿は、京都へ6里、江戸へ128里、大阪へ5里の位置にあります。

  東見附から西見附までは、東西13町1間(1,447m)、道幅2間半でした。北側の淀川と南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山(御殿山)に挟まれた地域に東西に細長く続いていました。

  三矢村が宿場の中心にあたり、宿場には、本陣(池尻善兵衛家)、家老専用本陣(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場2ケ所、旅籠は大17軒、中18軒、小20軒の合計55軒、船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ケ所、郷蔵4ケ所、船番所2ケ所、紀州公七里飛脚小屋、町飛脚などがあった。問屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒あったと言われてました。

  鍵屋資料館前の路地が昔の文禄堤の内地側の傾斜を今に残しています。

【参考情報】

Wikipedia:枚方宿