ここでは、鋳物資料館展示内容 について紹介します。

1.鋳物に関する4枚のPanel

 Panel-1 Panel-2 Panel-3 Panel-4

Panel-1.鋳物民族資料館について

 田中家は、天平宝字(テンピョウホウジ)(757-764)に万年通宝(マンネンツウホウ)と太平元宝(タイヘイゲンホウ)の鋳造をしたとの家伝を持つ古い鋳物師です。

 江戸時代には、朝廷の権威を背景に全国の鋳物師を統率していた真継家(マツギケ)より、北河内地域の独占的な営業を許され、枚方上之町で鍋や釜といった日用品、鋤先(スキサキ)などの農具、寺院の梵鐘などの鋳造を行ってきました。

 田中家が鋳物工場として使用していたこの建物の建築年代は、江戸時代中期と考えられており、江戸時代の鋳物工場の姿を現在に残す、国内でただ一つの建物です。

 長きにわたって製造業を営んでいましたが、昭和40年(1965)頃には廃業し、その後、鋳物工場が昭和48年(1973)に大阪府指定有形文化財の指定を受け、田中家より枚方市に寄付されました。続いて、隣接する住宅(主屋(オモヤ))も昭和50年(1975)に寄付され、大阪府指定有形文化財の指定を受けました。

 枚方市は昭和49年から57年(1974~1982)にかけて現在地に両棟を移転復元し、昭和59年(1984)に「枚方市立田中家鋳物民族資料館」として開館しました。工場内には鋳物の歴史や製作の道具類と田中家の歴史を、住宅内には枚方の伝統的な生活用具を展示し、貴重な歴史遺産として広く後悔しています。

Panel-2.鋳物とは

 鋳物とは、金属を高温で溶かして、鋳型に流し込んで作られる製品を指します。この金属加工の技術を「鋳造」といいます。鋳造は金属を溶けた状態で流し込んで成型するので、鋳型しだいで複雑な形状の製品を作ることができます。また、同じ鋳型を使ったり、作ることで、同一の製品を一度に大量につくることができる技術的な特徴があります。

 日本では伝統的に、鋳物をるくる職人は鋳物師(イモジ)と呼ばれました。粘土と砂を混ぜた「真土」で鋳型を造り、寺院の青銅製の梵鐘や、鉄製の鍋や釜といった日用品、鋤先といった農具など様々なものを作っていました。

Panel-3.工場についてPanel-3

 建物内部の中央には金属を溶かすためのコシキ(溶解炉)が置かれ、壁を隔てて踏鞴(タタラ)があります。踏鞴はコシキが内部を高温にするために大量の風を送る装置です。作業時は工場が高温になるので、建物の土壁には多数の格子窓が規則的に配され、風通しを良くしています。また、屋根は防火のために瓦葺きになっており、瓦屋根の中央には、コシキの熱を逃すための風袋があります。

 工場内では鋳型造りが行われました。鋳型ができると、金属を溶かして鋳型に流し込む、鋳込みが行われます。鍋や釜、鋤先といった小さい物なら工場中に鋳型を並べ、また。大きな梵鐘の場合はコシキの前に穴を掘って、鵜方を入れて鋳込みを行いました。

Panel-4.鋳造技術の発祥とわが国への伝播

 人と金属との出会いは、紀元前5,000年頃にはじまる。はじめは金や銅など天然の金属を槌打ちして装身具などに加工していたが、前3,500年頃に、溶かした金属を鋳型に流し込んで鋳物を作るようになった。

 メソポタミア地方ではじまった鋳物作りの技術は、中央アジアの西南部から、のちにシルクロードと呼ばれるようになった地方を通って東アジアへと拡がっていった。中国では商代(前17世紀~前11世紀)の精緻な青銅器が数多く発見されているが、この中国の技術が朝鮮半島を経てわが国に伝わったのは、弥生時代(前500~300年)に入ってからのことである。

 最初の鋳型は、石に彫刻された片面だけの開放鋳型で、次いで表裏2面の鋳型が組み合わせられるようんなり、中子を入れて、中空のものや複雑な形のものが作れるようになった。また、石型から土型へ、さらに原型に蜜蝋用いる蝋型へと発展していった。鋳込む金属としては、銅単独から、銅と錫の合金(青銅)なども使われるようになり中国では前500年頃から鉄の鋳物が作られた。