足柄上郡集団放火事件(あしがらかみぐんしゅうだんほうかじけん)は、1930年代前半、松田町を中心とする足柄上郡一帯での火災事件の頻発を背景として起きた、警察による人権蹂躙事件。神奈川県警察部松田警察署に設置した捜査本部が、保険会社の外交員と被保険者の家主の共謀による放火による保険金詐取を疑い、1935年11月に被疑者183人を検挙、起訴したが、刑事裁判で有罪となったのは2人に止まった。勾留の長期化や取調べ時の拷問が問題視され、判決後に被告人が横浜地裁検事局に警察による人権蹂躙を告発した。調査が行われたが、証拠不十分として全員不起訴処分となり、5人が退職、2人が休職するに止まった。

経緯

火災事件

1930年(昭和5)から1935年(昭和10)にかけて、松田警察署管内の足柄上郡一帯で、火災事件が頻発した(下表)(2)。このうち、原因が放火とされたのは16件で、不明38件、失火133件として処理されていた(2)

表 松田警察署管内における火災事件の発生件数(1930年 - 1935年)

西暦年 和暦年 火災の件数(件)
1930 S5 16
1931 S6 29
1932 S7 42
1933 S8 48
1934 S9 33
1935 S10 19
小計 187

資料:(2:341)

火災が頻発したことから、松田警察署は(神奈川県)警察部から「腕きき刑事?」の応援を得て、署を挙げて捜査をしていた(2)

保険金詐取疑惑

1934年(昭和9)5月17日に寄村の小宮氏方で起きた火災について、松田署は失火事件として処理し、略式命令で罰金20円を科した(2)。小宮氏はこれを不服として裁判を申し立てた(2)

寄村駐在所の巡査は、同方の火災について駿東郡小山町の朝日火災(2023年現在の楽天損保の外交員が保険金の一部を横領し、両者間で紛争になっているとの噂を聞いて、同年7月1日に松田警察署に報告した(2)

松田署は同人を検挙して、平塚市在住の千代田生命(2023年現在のジブラルタ生命の外交員と共謀して保険金を横領したことなどを自供させ、1933年から1934年にかけて24戸に同一手口で放火し、保険金を詐取したとの疑いをかけた(2)

松田警察署から警察部と小田原検事局への報告を受けて、同月25日に同検事局の正木検事が取調主任として現地に派遣され、更に横浜地裁検事局から奥田上席検事が派遣されて取調主任が交替(2)。松田警察署に捜査本部が設置され、警察部から加藤道雄刑事課長以下の職員が出張して捜査態勢が強化された(2)

捜査の過熱

捜査本部は、まず、保険会社の外交員4人を検挙して、放火を自供させ、更に放火団は被保険者と共謀した上で放火を行い、保険金支払額の一部を謝礼として受け取っていたことを自供させた(2)

警察は、先に松田署を訴えていた小宮氏について、外交員と共謀して自宅に放火をしたと嫌疑をかけ、放火を自供させた(2)

更に捜査本部は、事件は保険外交員と被保険者の共謀による大規模な集団放火事件との嫌疑をかけ、関係者を大量に検挙した(2)

1935年(昭和10)11月4日未明に、警察官26人を5班に分けて被疑者宅を襲い、12人を検挙(2)。同月16日未明に、小宮氏ほか10人を検挙(2)。その後も大量検挙が続けられ、1936年(昭和11)4月21日の第7次検挙までに、被検挙者は183人に達した(2)。被疑者は神奈川県下の各警察署に分散留置されて取り調べを受け、犯罪事実濃厚として全員起訴された(2)

審理促進の陳情

警察による大規模な被疑者の拘置が長期化し、捜査状況も不透明だったことから、各方面から審理促進の陳情が行われた(2)

  • 1936年(昭和11)5月22日、松田町の社会委員5人が神奈川県庁へ陳情。
  • 同年8月8日、松田町助役・中村由之ほか5人が県庁と横浜地裁検事局へ陳情。
  • 同月18日、三保村の社会委員6人が県庁社会課?学務課に陳情。
  • 同月29日、足柄上郡の町村長が連名で横浜地裁の検事正に上申書提出。
  • 同年9月7日、松田町会議員ら6人が、県庁と横浜地裁に陳情。
  • 1937年(昭和12)3月、第70帝国議会で、河野一郎代議士が塩野司法大臣に事件について質問し、事件の早期終結を要望。
  • 同年9月、神奈川県議会で、小林歛企議員と藤原政雄議員が、それぞれ、事件捜査で人権侵害の事実があるとして知事の答弁を要求し、半井知事は、真相を究明して公明な処置を執ると回答した。

足柄上郡松田町を中心とする所の、いわゆる集団放火事件は、我が裁判上における所の空前の事件と申すべきもので、その被告の数は183名の多数にのぼり、その拘禁の期間は短いもので1ヵ年、長きは4年にまたがっている。而して予審の結果、免訴者は実に90名という多数を出している。この多数の免訴者を出したことと、長きに亘る勾留の2点を見ても、是が取調べには非常な無理があり、同時に極端な人権蹂躙の事実があったことは明白であります。

更に釈放されました被疑者に接してその悲憤慷慨その語るを聞き、或は傷害の跡癒えざるもの、また満足に歩行のできぬ者、指が曲って不具者になってしまった者、これらを私共郷土において眼のあたり見ますれば、取調べに当った警察官が如何に厳しい拷問を致したかが明瞭でありまして(下略)

ー藤沢政雄議員の県会における質問より(2:349)

編注:一部の漢字を平仮名に、漢数字を英数字になおし、読点を補った。

原注:引用資料は『神奈川県会史』。

裁判

1939年(昭和14)11月28日に、横浜地裁刑事部法廷で第1回公判が開かれ、水上尚信裁判長は、被告人1人に単独放火により懲役4年、ほか3人に無罪を言い渡した(2)

1940年(昭和15)1月26日の第2回公判では、橋本匡也裁判長は56人に無罪を言い渡した(2)

同年5月30日の第3回公判では、水上裁判長が13名に無罪を言い渡した(2)

以後、同年11月13日まで数回の公判が開かれたが、被告人のうち、有罪となったのは第1回公判の被告人1人と、最初に嫌疑をかけられた朝日火災の保険外交員(単独放火、懲役7年)の2人だけだった(2)

警察による人権蹂躙の告発

被疑者183人を検挙しながら、裁判の結果、有罪は2人で、他は全員無罪となったこと、また取調べの過程において警察官の苛酷な拷問が行われ、被告人が自白を強要されたことから、判決直後から、被告人から横浜地裁検事局に対し、人権蹂躙の告訴が提出された(2)

同検事局の4検事が告訴事件を担当し、神奈川県警察部刑事課長・加藤道雄警視以下の警部5、警部補5、巡査部長4、巡査22人の合計34人が取調べを受けたが、証拠不十分として全員が不起訴処分となった(2)

しかし、職務執行について不適切な点もあり、警察の威信を失墜させたとして、警視1、警部2、巡査部長1、巡査1人の計5人人が退職し、巡査2人が休職した(2)

関連資料

  • 「戦慄!”集団放火”の全貌」『東京朝日新聞』1937年(昭和12)5月6日(1)

参考資料

  1. 播摩晃一「足柄上郡集団放火事件」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、82-83頁
  2. 松田集団放火事件」神奈川県警察史編さん委員会 編『神奈川県警察史 中巻』神奈川県警察本部、1972、341-350頁